さよなら


 左手の甲に小さな傷がある。

 中学二年生の時だ。我が家で飼っていた犬の「コロ」の散歩をしようとした時、リードをつける前に小屋から飛び出された。いつもは祖父が散歩を担当していたのだが、その日は体調が悪く、私が初めて彼の散歩をすることになったのだった。

 自由に走り回るコロはまさに自由奔放と言った感じで、家の前の坂を駆けあがり、小さな林に入ったかと思えば、散歩中の他の犬にワンワン吠えて威嚇するものだから、私は必死になってそれを止めることになった。その時に引っかかれた傷が、火傷の跡のように小さく残っている。

 おととい実家に帰った。3年前、大学のため引っ越しをするときに見たコロの元気な姿はどこにもなく、立つこともできずに苦しそうに呼吸をしていた。

「コロ、人間で言ったら100歳くらいになるからね」

 祖母がそう言って、私に理解を求めるような視線を投げかけた。

「コロ」と呼びかけてみるが、彼は殆ど動かない。いつもは私が呼び掛けると、四角に囲まれた小屋の隙間に前足をひっかけて頭を突き出していたのに。

 私を見つけると小屋の中をバタバタと動きながら見つめてきた彼の真っ黒な瞳に白い濁りが混じっていた。聞くと、もう目も見えていないのではないかということだった。

 昨日下宿先に帰ってきて、今日の昼、叔母から「コロが死んだ」と連絡が来た。

 嘘ではないことはわかっていたし、長くないこともわかっていたはずなのだが、祖父に電話をした。

「最後にお前に合えてよかったと思う。ありがとね」

 厳しかった祖父らしからぬ、優しい声。それは、子供を慰める大人の声色だった。

 悲しい。私だけのうのうと生きていていいのだろうか。